健康的依存

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    昨日のブログで依存について書きました。

    依存のそもそもの対象は母であったと。

    それが別の物に置き換えられると。


    依存というのは、克服すべきことではありません。

    なぜかというと、人はみな永遠に根本的に母を求めているから。

    その母の欠如の場所に別のものが入るので

    それは無限に存在するわけです。

    ペットだって入るし、温泉だって入るし、男性だって入る、

    置き換えはみな千差万別なのです。


    だから健康的な依存を見つければいいだけなのです。

    つまり決して過剰にならないこと、依存の問題は耽溺症という言葉の

    ように、溺(おぼ)れるほどに耽(ふけ)ってしまうということが問題なのです。

    コントロール不能に陥ってしまうところが病理になるわけです。

    だからしっかりと自分で抑制できることが肝心なのです。

    それが健康な依存ということです。

    お酒を飲むのが悪いとかそういうことではないのです。

    度を過ぎない、それなりの超自我を持てばいいのです。


    依存症

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      アルコール依存、買い物依存、ギャンブル、薬物依存などたくさんの

      依存症がある、いわゆる耽溺(たんでき)症といわれるものは36種類ぐらいある。

      それは、実はあるたった一つの穴いわゆる「欠如」を埋めたい!!

      その穴埋めの行為である。

      それは、"母への依存"である。

      それが抑圧、つまり出来ないがゆえに、代償行為ということなのである。

      なので治療としては、簡単に言えば、母に依存することで解決する。

      しかし、依存できる母であったならば耽溺症にはならなかった・・・。

      ということは一般的には永遠にいろんな代償行為で

      埋めていくだけなのである。





      言葉を持つ

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        人前に出ると萎縮して何も言えないという。

        みんなは自信持ってしゃべっているような気がして、

        それに比べて自分は・・・と思うと言葉が出てこないという。

        そんな人は多いかもしれない。


        そもそもそういう人は言葉を持っていない。

        自分とはどんな私なのかを語れない。

        そういう人はほとんど、お前はダメだという否定にあっている。

        だから、「自分はダメだ」というたった一言の言語しか持っていないのです。

        それでは何も語れないのは当然ですね。

        じゃーどういう風にだめなのか、という私を表す言葉が必要です。

        いいとか悪いとかというより、私はどういう風に言われてどんな自分だと

        規定され、そしてそれを受け入れてしまったのか?

        そういう人にとって言葉は凶器になっている。

        言葉の世界は地獄かもしれない。


        自分の言葉を否定されたことが言語の世界から遠ざかってしまった。

        分析(セラピー)によって言語を持つことが必要です。


         

        言わなければ人は分からない

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          日本人は言葉にしないというところに美徳を重んじる傾向がある。

          相手の心を読むというか察知してという、心使いというのを大切にする文化が

          根付いているせいか、言葉を介さない会話が成り立つ。

          言わなくてもわかるでしょっ、分かってあげないと。

          相手に言われる前にこちらが気付いてあげるなど。

          それを、あうんの呼吸というのかもしれない。

          暗黙の了解とか、空気を読むとかいう。


          これは外国ではありえないことである。

          この文化はやはり母系社会の日本ならではなのだろうと思う。

          言わなくてもわかるというのは、そもそも母子一体化状態の世界だから。

          赤ちゃんは言葉をしゃべれないから母は察知して赤ちゃんの要求に答え様と

          する、その母子ワールドがいつまでも続いているのが文化となっている。


          自分が思ったことは言わなければ相手に伝わらない!

          言わなくても察知してくれよ、というのは母に求めているのであって、

          他人には伝わらないということを知るべきである。

          先生分かってよ、友達なら言わなくてもわかるでしょ、部下ならそれくらい

          察しがついて当たり前でしょ、妻ならそれくらい気付けよ、

          なんでこれくらいのこと気付かないのか・・・と憤慨している。


          それは、自分が言わないからである、と自分が気付くことが必要であろう。


          私を大事にすることは・・・

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            自分を大事にしていない人は、自分の身のまわりのものさえも

            大事にしていないかもしれない。

            生活に必要なものをどんな基準で選んでいますか?

            とりあえず使えればいい、着れればいい、動けばいい、安ければいい・・・


            車も動いて乗れればそれでいい、テレビも見れればいい、

            そして服さえもまっ一応恥ずかしくなく着れればいい、

            食器だって使えればいい、食べれればなんでもいい、

            寝る布団はあればいい・・・と。

            毎日私がお世話になるものがどうでもいいということは

            私自身がどうでもいい存在であるということでもあります。

            自分が日々囲まれているものは自分が選んだお気に入りのものですか?

            とりあえずあればいいのものですか?

            自分の気に入ったもので囲まれていたらそのもの達を大切に扱いますよね。

            ということは、自分も大切にしているということだと思います。





            意味の病い

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              私は生きている価値がない、となると、「生きている意味が無い」ということになる。

              それは「意味」を付けたからということ。

              生きていることに意味を付けなければ、そんなこと考える必要も無い。

              実際そんなこと全く考えないでただ生きている人たちだってたくさんいる。

              ということは、人は意味を付けるから悩んだりするのである。

              これは意味の病なのである。

              意味のないこともたくさんある。

              実際、生きているということは生きているだけ、ただそれだけだから。

              ということは、意味を持ってしまったら、意味付けしたら、その意味が不都合であり

              生き辛いのであれば、意味を変えればいいということになる。

              意味を付けたのは他でもない私だから、変えるのも私の作業。

              生きる希望が持て、楽しい人生にする意味に書き換えるのである。

              さー、どんな風に書き換えましょうか?


              母に愛されなかった青年

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                20代の引きこもりの青年の話。

                母はぬいぐるみをとても可愛がっているという。

                目に入れても痛くない程に可愛がっていると、そしてそれを部屋に飾っていると。

                青年は何を言いたいのか? 

                そのぬいぐるみになりたいということですね。

                そのぬいぐるみはどんなぬいぐるみだったのか?と聞くと

                それはまさに "赤ちゃん"だったのです。

                つまりその青年はぬいぐるみにすらなれなかったということなのです。

                目に入れても痛くないほどの母の対象になりたかったのにも関わらず

                なれなかった・・・。

                もし母に愛される対象であるならば青年は引きこもらないわけですね。

                青年の叫びが聞こえます「俺はぬいぐるみ以下か!!」と。




                 

                親のクセを知り〜

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                  親のクセというものは子供は知らず知らずの内にまねて(摂り入れて)いるもの。

                  それが本人全く気付いていないことも多々あります。

                  「親を語って下さい」といわれて語っているうちに、「あっそれは私も同じだ」と

                  始めて気付くことが多い。

                  長い年月まったく気付いていないのである。

                  語ることはやはりすごいことである。

                  親子は似るというのは別に遺伝子の問題でもなんでもない、ただ親をまねただけ

                  なのです。だから病気だって真似るのです。

                  代々ガンの家系だから自分もたぶんガンになるかもしれないと思えば

                  ガンを摂りいれるのです。

                  もちろん摂りいれていることには素晴らしいことも多々ありますね。

                  親孝行とは、親のいいところは真似て悪しきところは真似ないことでもあります。







                   

                  自己管理

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                    自己管理が出来るということは自律の第一歩である。

                    自己管理とは、時間・お金・健康の3つになる。

                    人との約束の時間を守れなかったり、会社にしょっちゅう遅刻して行ったり

                    などの時間にルーズであったり、

                    後先考えず衝動にまかせてお金をあればあるだけ使ってしまったり、

                    そして人に簡単に借りて中々返さない、

                    今が楽しければいいと明日のことを考えずに朝まで飲んで体調を壊し

                    会社にいけないとか、見たいテレビがあるからといって夜更かししすぎて

                    翌日体調が悪くて仕事にならない、食べたいだけ食べて具合悪くなって・・・

                    などというように、自分で自分の管理が出来ないというのは、

                    子供であるということになる。

                    これらの生活態度はやはり養育環境で学習したことである。

                    つまりはその親もまた同じであるということになる。

                    これらの管理ができないとなれば社会では困ったことになり

                    やはりいろんな問題を起こすのは当然。

                    親がそうだったから仕方ないでは済まされない。

                    社会では自己責任が伴う。

                    今からでも遅くはない、自律する道を自らが選ぶことから始まるのである。








                     

                    私の求めるもの

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                      私たちは自分の欲求欲望が本当は何であるか?

                      つまり私は何を目的に生きているのかが規定できていない。

                      それは想像的自我の関係において、例えばあの人にこう思われるんじやないか?

                      相手がどう思っているのか?と考え、そして今度は相手の立場になってみて

                      自分を見て見る・・・こういう行ったり来たりの往復運動をしている毎日。

                      そんなことばかりにいつも気を取られていたのでは、

                      自分が何を欲しているかなんていうことは考えている余地がない。

                      私たちは日頃自分の欲望で生きているのではなく、相手にどう映るかという

                      この心的配慮だげて生きている、それに大方の心的エネルギーを消耗している。

                      それはいわば自分の中の想像的世界、それに費やしているということ。

                      だから何故だかいつも心は満足しないとなる。

                      本当に自分が望む人生とは何なのか? 私の欲求は何なのか? 

                      つまり私のアイデンティティーは何か?
                       
                      セラピーをしていってやっとそこに行き着くのです。





                       


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