感覚と感情の遮断(快と不快)
子供が転んでひざをすりむいて痛いーって泣き出す。
そうすると、お母さんは、「痛くない痛くない」って言う、そして
「泣かない泣かない」って言う。
子供は、痛いのです、泣きたいのです。
これをやられてしまうと、感覚と感情を遮断させられてしまうのです。
そして段々、痛いを痛くないに変換していきます。
悲しいを悲しくない、辛いを辛くない・・・そしてこれらの不快を快と感じるように
全く反転させてしまうのです。
するとどういうことが起きるかというと、不快な感情感覚が快感に変わるわけ
ですから、苦しみや痛み、気持ち悪さ、果ては不幸が快になり、
喜びや楽しさ、そして幸せが不快ということになってしまいます。
人間は快感原則に従って生きていますから、不快なものは遠ざけようとします。
快感は、苦しみ痛み悲しみ不幸ですから、いつもそれらに囲まれて生きていくという
構造になってしまいます。
意識ではそんなことを求めていないと思いながらも、実はその人がいつのまにか
自己規定していたことなんですね。
そんな心の構造を認識しない限りは永遠に反復し続けていくだけなのです。
幸せになりたいと思いながらも、自分で積み上げた幸せの積み木を自分で崩す、
自分で自分の尻尾を食べるようなものですね。
痛い、苦しい、辛い、気持ち悪いということはやはり不快なのです。
どう頑張っても快ではないと、今思えればいいんですね^^
そうすると、お母さんは、「痛くない痛くない」って言う、そして
「泣かない泣かない」って言う。
子供は、痛いのです、泣きたいのです。
これをやられてしまうと、感覚と感情を遮断させられてしまうのです。
そして段々、痛いを痛くないに変換していきます。
悲しいを悲しくない、辛いを辛くない・・・そしてこれらの不快を快と感じるように
全く反転させてしまうのです。
するとどういうことが起きるかというと、不快な感情感覚が快感に変わるわけ
ですから、苦しみや痛み、気持ち悪さ、果ては不幸が快になり、
喜びや楽しさ、そして幸せが不快ということになってしまいます。
人間は快感原則に従って生きていますから、不快なものは遠ざけようとします。
快感は、苦しみ痛み悲しみ不幸ですから、いつもそれらに囲まれて生きていくという
構造になってしまいます。
意識ではそんなことを求めていないと思いながらも、実はその人がいつのまにか
自己規定していたことなんですね。
そんな心の構造を認識しない限りは永遠に反復し続けていくだけなのです。
幸せになりたいと思いながらも、自分で積み上げた幸せの積み木を自分で崩す、
自分で自分の尻尾を食べるようなものですね。
痛い、苦しい、辛い、気持ち悪いということはやはり不快なのです。
どう頑張っても快ではないと、今思えればいいんですね^^
- 2013.02.20 Wednesday
- 心理
- 20:15
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- by 豊城 聡子